私事ですが、いろいろありまして転職活動を実施している最中であります。何か仕事の口がありましたらご紹介ください、という状況です。そんな個人的な状況の話から始まって恐縮ですが、転職サイトなどを眺めていますと
自分を成長させるため
などという文言がやはり載っているわけです。ある程度の年齢の転職であれば、企業が求めるのは即戦力であり、完成したパッケージでしょう。それを理解しないで、
一緒に成長していきたいです
みたいなことを言う人、掲載している企業はちょっと遠慮してしまうわけです(それによってさらに転職の道が遠ざかっているわけですね)。またしても個人的な話が少し現れましたが、この”成長したい”という言葉がとても厄介だと思うわけです。
弊社は事業を拡張して成長を続けております!!
という成長はとても理解できます。収益が高まっているというのがよく分かりますし、それには商品が売れているというのが伴っていると推測されます。では、個人が”成長したい”という場合にはどのような問題があるか。例えば商品を売る立場で治療家の人を例として考えてみますと、
1.幅広い層を担当し、多くの経験を積んで能力が高まっている人
2.トップ選手だけを見て、数はあまりこなしていないので経験した絶対数が少ない人
この場合、広告としては2の人の方が効果的でしょう。あの選手を担当しています、とうのは魅力的だと思います。ただ、実力となると1の人の方が高いことが多いと思います。もちろん、数少ない経験の中で大きく能力を向上させる人もいますが、やはり絶対数による経験は大きな財産になるでしょう。となると、2の人はまだまだ成長の余地があると言えます。そうした人が勉強して能力を高めたいと言うのは良いことだと思います。しかし、客の立場からしますと、成長の余地があるということは未熟な技術を提供されている、という捉え方も出来ると思います。完璧なものを提供する、マスターしてもう成長出来ないという状態を判断することは難しいですが、求められるのはアップデートを続けて、勉強を続けて成長している人よりも、多くの経験を既に積んで成長しきった人でしょう。ですので、個人的には
もう成長出来る余地は無いと思えるほど勉強して経験を積んできました
という人の方が信頼度は高い気がします。レベル99まで上がるはず、と自分の実力を把握し、80くらいまでは上げ切った状態で残りを探し続けてアップデートするのは良いけど、レベル5の状態で勉強して新しいことを学んでいるのに、1年経ってもレベル5、という状態で仕事を続けるのはどうかな、と思うわけです。ある程度の知識がある人に話を聞くと、学会やら講習会やらに参加しても得るものは無かったと言います。これは既に自分で可能な限りのレベル上げをして、これは知っている、これも知っている、という状態になるからでしょう。その中で、今までつながっていなかった知識がつながる、新しいものが登場した話を聞く、といったことに遭遇して、アップデートされる、となるような気がします。これを経験したら次のレベルに行ける気がする、というのも見えてくる時はありますし。闇雲に話を聞きに行ってレベルアップできるというものでもありませんので。この、レベルアップしている自分に満足しないで、まだまだ勉強が足りていない、これではお客を満足させられない、効率の悪い仕事をしてしまっている、という点を理解し、まとめてドカンと勉強して経験して、成長する余地がなさそうだなという状態まで高めてしまうのは大事だよな、と思います。その中で、いろいろなことに触れてまだまだレベルが上がる余地のあることに気づく、というので成長すれば良いのでは、と。いつまでも成長をしていることは良いことではない、未熟な状態からは早く脱して胸を張れるようにしつつ、でも自分のスキルを高めるために研鑽を続ける。そうした感じでやれれば良いのでは、と転職活動をしていて思いました(そう、個人的な転職活動の話が根底にありますので。仕事が決まったら文章を一部修正する、はずです)。
アスリートの指導で言うならば、まだまだ未熟なのでよく分かりません、と言う人より、とにかくアレコレと勉強し話を聞きetcで経験を積み、これが正解であろう、最も効率が良いであろう、というものを築き上げてしっかりとした土台をベースに指導している人は、10年経っても20年経っても言っていることは同じであることが多い気がします。言い方は変わるけど、根本の部分は変わらない。逆に、これを閃いた、これが良い!!とフラフラする人は、それはその昔に淘汰された完璧に間違っていたやり方ですよ、というものに引っかかることが多い気がします。こんな斬新なやり方が!!というのは何年かに一度は登場したりしますが、過去に使われきったものであることはよくあります。それはある程度の年齢の人に話を聞いたり、昔の本などを読めば知ることが出来ます。そうした努力を少しでもして”変なバージョンアップ”をしないようにしたいところです。なお、こうしてある程度の完成形というものに達すると、他人に教える時に最短の効率で教えられるようになり、1年や2年で教えることが無くなり客が離れるという問題点があることも付け加えさせて頂きます...
2018-05-16
2018-05-07
トレーニングにおける車輪の再発明問題
トレーニングをしていく際に、何かを学ぶことで最短距離で自らが目的とするゴールへと辿り着く可能性が上がります。何も考えずにガムシャラにやっていくよりは、教科書などを参考に、先達の言っていることを参考にしていくと良いという話ですね。車輪の再発明という言葉を知っている人もいるかと思いますが、
車輪の再発明(wikipedia)
多くの人に既に知られていることであっても、それに触れていない、知らない人にとっては重大な発明をしたと思ってしまう問題というのはよく見られます。例えば、速く走るためのトレーニングとして効率が良いものを運動生理学を勉強し、実験をして突き詰めていった結果に生み出して、これは合理的で最高のトレーニングだと思った人がいるとします。一方で、それと全く同じことを経験から生み出してしまった人もいます。これは勉強して突き詰めた人が経験から生み出した人に出会えれば、勉強する時間を大幅に減らして生み出すことが出来たかもしれない、と言えます。自分の努力によって既に知られていることを発見した人に多く見られるのが、ダニング=クルーガー効果ではないでしょうか。
ダニング=クルーガー効果(wikipedia)
俺は独力で発見したんだ!!という思いがあるのは当然かもしれません。しかし、そんなものは誰かに話を聞いたら簡単に発見できたのに、少し勉強すれば知れることなのに、ということでも自信を持ってしまって自分が最先端を行っていると勘違いしていまうのはよくあるかと思います。また、先達の人たちが情報を残していない、共有をする機会が無くて再発明されてしまうことというのもよくあります。大学の部活動などで指導者が系統立てて教えることで、そうした点は防げるような気もしますが、必ずしも部活など組織に属してトレーニングなどをするわけではないので、どうしても情報の共有というのは難しい問題となります。私の場合は陸上競技の中距離、特に800mという種目において過去に日本のトップ選手を指導していた経験があるため、情報を求めて話を聞きに来る選手がいたりします。この情報を聞きに来る人が自分の現在のトレーニングの状況などの話をしてくれる結果、私の元には多くの情報が集まります。その結果、問題はどこにあるのかというのを指摘することはそれなりに簡単になります。情報の共有が出来れば一から調べることもなく終わります。こうした知識や経験の蓄積が指導者の存在する大きな意義の一つになるのでは、と思う所です。多くの情報を保有している指導者から情報を全て引き継ぐことで再発明をしないで済むようになるわけですが、完全コピーをするのが難しいのは当然です。ですので、ある程度は学ぶことが出来るが、最終的には自分で経験をすることで確立することになります。過去にその分野でいろいろとやっている人に話を聞くというのは、成長するため、成果につなげるための近道となるはずですが、この部分を軽視している人も多い気がします。自分で独自の理論を身につけるとしても、どう勉強するのが良いかというのはその道を既に通った人に効くことで短縮可能になるはずです。ハズレを引いてしまう可能性もありますが。
選手として活躍できる時間というのはそんなに長くないのに、既に発明されたものを再発明するのに多くの時間を注ぎ込んでしまわないように、他人の知恵を貰うこと(借りるではなく貰う。対価を支払って貰う)は大事です。教科書を読む、本を読む、話を聞く。様々な方法で他人の知恵を貰う手法がありますので、自分でゼロから作り出さずに最短のルートを通る工夫をもっと見つけて頂ければ、と思います。
春になって高校生や大学生らが先輩というポジションに立ち、自分の経験から指導したりして、才能を潰してしまっているのでは?と思う場面を目にします。この問題はどうにかしたいところです。学校という組織なら情報共有はしやすいはずですが、何も残らないことの方が多い気がしています。成功した人の表面的な所だけでなく、全体を通して眺める、代表的な練習ではなく普段において何をしていたか。そうした細かい所の方が大事であったりしますので。再発明をする部分を極力減らすことで、もっと成果は出るのではないでしょうか。
車輪の再発明(wikipedia)
多くの人に既に知られていることであっても、それに触れていない、知らない人にとっては重大な発明をしたと思ってしまう問題というのはよく見られます。例えば、速く走るためのトレーニングとして効率が良いものを運動生理学を勉強し、実験をして突き詰めていった結果に生み出して、これは合理的で最高のトレーニングだと思った人がいるとします。一方で、それと全く同じことを経験から生み出してしまった人もいます。これは勉強して突き詰めた人が経験から生み出した人に出会えれば、勉強する時間を大幅に減らして生み出すことが出来たかもしれない、と言えます。自分の努力によって既に知られていることを発見した人に多く見られるのが、ダニング=クルーガー効果ではないでしょうか。
ダニング=クルーガー効果(wikipedia)
俺は独力で発見したんだ!!という思いがあるのは当然かもしれません。しかし、そんなものは誰かに話を聞いたら簡単に発見できたのに、少し勉強すれば知れることなのに、ということでも自信を持ってしまって自分が最先端を行っていると勘違いしていまうのはよくあるかと思います。また、先達の人たちが情報を残していない、共有をする機会が無くて再発明されてしまうことというのもよくあります。大学の部活動などで指導者が系統立てて教えることで、そうした点は防げるような気もしますが、必ずしも部活など組織に属してトレーニングなどをするわけではないので、どうしても情報の共有というのは難しい問題となります。私の場合は陸上競技の中距離、特に800mという種目において過去に日本のトップ選手を指導していた経験があるため、情報を求めて話を聞きに来る選手がいたりします。この情報を聞きに来る人が自分の現在のトレーニングの状況などの話をしてくれる結果、私の元には多くの情報が集まります。その結果、問題はどこにあるのかというのを指摘することはそれなりに簡単になります。情報の共有が出来れば一から調べることもなく終わります。こうした知識や経験の蓄積が指導者の存在する大きな意義の一つになるのでは、と思う所です。多くの情報を保有している指導者から情報を全て引き継ぐことで再発明をしないで済むようになるわけですが、完全コピーをするのが難しいのは当然です。ですので、ある程度は学ぶことが出来るが、最終的には自分で経験をすることで確立することになります。過去にその分野でいろいろとやっている人に話を聞くというのは、成長するため、成果につなげるための近道となるはずですが、この部分を軽視している人も多い気がします。自分で独自の理論を身につけるとしても、どう勉強するのが良いかというのはその道を既に通った人に効くことで短縮可能になるはずです。ハズレを引いてしまう可能性もありますが。
選手として活躍できる時間というのはそんなに長くないのに、既に発明されたものを再発明するのに多くの時間を注ぎ込んでしまわないように、他人の知恵を貰うこと(借りるではなく貰う。対価を支払って貰う)は大事です。教科書を読む、本を読む、話を聞く。様々な方法で他人の知恵を貰う手法がありますので、自分でゼロから作り出さずに最短のルートを通る工夫をもっと見つけて頂ければ、と思います。
春になって高校生や大学生らが先輩というポジションに立ち、自分の経験から指導したりして、才能を潰してしまっているのでは?と思う場面を目にします。この問題はどうにかしたいところです。学校という組織なら情報共有はしやすいはずですが、何も残らないことの方が多い気がしています。成功した人の表面的な所だけでなく、全体を通して眺める、代表的な練習ではなく普段において何をしていたか。そうした細かい所の方が大事であったりしますので。再発明をする部分を極力減らすことで、もっと成果は出るのではないでしょうか。
2018-04-22
距離と時間が練習効果ではない
長距離種目においては速くなるには走り込みが大事とされますが、この走り込みは距離と時間によってその量を見ることが多いと思われます。
月間600㎞走った
昨日は2時間走った
たくさん練習をやったという表現としては分かりやすい気がします。しかし、この量や時間がトレーニング効果に直結するかと聞かれると、とても疑問であると答えます。 600㎞走ったという中身を見ない事には意味がありません。例えば毎日20kmを3時間かけて走ったとして600㎞になります。時間に余裕があるから8時間かけて20㎞走りました、と言われた時に、すごい練習をしているなぁ、と思うことは無いかと思います。中身を見た時に、8時間で20㎞ということは1時間に2.5㎞。100mに2分近くかかっていることになります。遅い。普通に歩くよりも遅いスピードで走れるなんてすごい、という話にもなってしまう気がしますが、こんな練習をしてきた人がマラソンで2時間20分で走れると思いますか?と聞かれれば、多分無理とほとんどの人が答えることとなると思います。大事なのは量や時間ではなく、その中身、質になります。量をたくさんこなすことで質につながる場合もありますが、その場合もどのように量をこなしたかが大事になります。言い方を変えるならば、大事なのは「負荷」となります。スピードをどれくらいにするのか、地面は走りやすいアスファルトなのか、沈み込む緩い地盤の土や砂なのか、アップダウンはあるのか、気温は高いのか低いのかなどなど。距離や時間が無駄というわけではなく、その中身が伴っていなければ意味の薄いものになってしまう、という話です。ですので、ジョグをするにしても環境の悪い路面を選ぶ、反発が良くて前に進みやすいとされるシューズをなるべく使わない、走るのに重要な筋肉を意識して使うなどなど、細かい所を意識して負荷をちゃんと掛けることで、本当に必要なトレーニングが実現されてきます。ただ走った時間や距離を増やせば速く走れるようになる、ということはトレーニングを積んでいけばいくほど無くなっていきます。もちろん、無意識でそうした点をこなしてしまっている人はいますが。
速く走るために必要なのは走った距離や時間ではない。走った際にどれだけのトレーニング効果を生むことができたかである
ということです。
月間600㎞走った
昨日は2時間走った
たくさん練習をやったという表現としては分かりやすい気がします。しかし、この量や時間がトレーニング効果に直結するかと聞かれると、とても疑問であると答えます。 600㎞走ったという中身を見ない事には意味がありません。例えば毎日20kmを3時間かけて走ったとして600㎞になります。時間に余裕があるから8時間かけて20㎞走りました、と言われた時に、すごい練習をしているなぁ、と思うことは無いかと思います。中身を見た時に、8時間で20㎞ということは1時間に2.5㎞。100mに2分近くかかっていることになります。遅い。普通に歩くよりも遅いスピードで走れるなんてすごい、という話にもなってしまう気がしますが、こんな練習をしてきた人がマラソンで2時間20分で走れると思いますか?と聞かれれば、多分無理とほとんどの人が答えることとなると思います。大事なのは量や時間ではなく、その中身、質になります。量をたくさんこなすことで質につながる場合もありますが、その場合もどのように量をこなしたかが大事になります。言い方を変えるならば、大事なのは「負荷」となります。スピードをどれくらいにするのか、地面は走りやすいアスファルトなのか、沈み込む緩い地盤の土や砂なのか、アップダウンはあるのか、気温は高いのか低いのかなどなど。距離や時間が無駄というわけではなく、その中身が伴っていなければ意味の薄いものになってしまう、という話です。ですので、ジョグをするにしても環境の悪い路面を選ぶ、反発が良くて前に進みやすいとされるシューズをなるべく使わない、走るのに重要な筋肉を意識して使うなどなど、細かい所を意識して負荷をちゃんと掛けることで、本当に必要なトレーニングが実現されてきます。ただ走った時間や距離を増やせば速く走れるようになる、ということはトレーニングを積んでいけばいくほど無くなっていきます。もちろん、無意識でそうした点をこなしてしまっている人はいますが。
速く走るために必要なのは走った距離や時間ではない。走った際にどれだけのトレーニング効果を生むことができたかである
ということです。
登録:
投稿 (Atom)